榊原秀剛 司法書士事務所

2009年2月23日 (月)

おひとり様の成年後見

「寅さんはもう、いない」

 日曜の午後6時30分と言えば、フジテレビの「サザエさん」が長年、高視聴率を独占してきました。テレビ放映の開始は昭和44年、九州の新聞「夕刊フクニチ」への連載開始は昭和21年のことだそうです。サザエさんを中心に、その夫のマスオ、父波平、母フネ、弟カツオ、妹ワカメという大家族が、隣に住む伊佐坂先生や三河屋さんをはじめ地域社会の中で、ほのぼのと温かく物語を織りなす誰もが知っている人気アニメです。ちなみにこのなかでの波平はまだ、54歳という設定だそうです。

 時代が下って、「クレヨンしんちゃん」の連載が始まったのは平成2年。主人公5歳の幼稚園児しんのすけが両親のひろしとみさえと春日部に住んでいます。ひろしはそこから霞ヶ関まで長距離通勤です。ひろしの父母は秋田県、みさえの父母は熊本県に住んでいるためしんちゃん一家は核家族です。連載の途中で妹のひまわりが誕生するものの、しんちゃんの幼稚園の仲間達にも、兄弟がたくさんいるようには思われません。

 それからさらに約20年を経たこの平成21年。今を舞台にホームドラマを描こうとすれば、たぶん、老夫婦2人にいつまでも自立できない30歳代の息子や娘の物語とか、都会の片隅でひっそり暮らす老いた母のもとに、派遣切りにあって帰ってくる40歳代の息子の話とかになるのでしょうか?はたまた、年収200万円以下のほとんどワーキングプア状態にいるひとり親家庭で、母の帰りをひとりぽつんと待つ幼い男の子の物語でしょうか?

 昭和32年に始まったNHKの長寿番組「きょうの料理」も「目安となる材料の量」を今年の3月30日放送回から、4人分から2人分に切り替えるそうです。

 そう、もはや言い尽くされたとおり、この平成の日本は、非婚化・晩婚化が進んだ少子超高齢社会で、さらに離婚率の増加によるひとり親家庭など、核家族がひしめく時代になっているのです。そして、そのぽつねんとした家族たちを取り巻く地域社会は、生活保護を打ち切られ、餓死しても、何か月も遺体が発見されない、希薄な環境として存在しているのです。

「コミュニティ」などは、程度の低い厚労省の役人が書く作文の中にだけ存在するにすぎません。

昨今の新聞記事には、家族が巻き込まれる目を覆いたくなる事件が多すぎます。昨年、平成20年の新聞データをざっと見ても、

①42歳の男性が両親と妻の胸や腹を刺して死亡させ、小学2年の長男と幼稚園児の二男も重傷を負うという事件が起きた。寝ているところを襲い、男性自身も自殺を図っている。家族経営の製本会社がうまくいかなくなった末の凶行で、大黒柱だった男性は、明るくまじめな性格で、町内会の活動もがんばっていたという。(東京都)

②40歳の母親が9歳の長男の首を絞めて殺し、自身も睡眠薬や解熱剤を大量に服用して自殺を図った。子育てや暮らしがままならないことに絶望しての無理心中だった。(千葉県)

③6歳の女児が母親(29歳)と同居していた男性(21歳)に暴行されて死亡した。(大阪府)

④39歳の会社員男性が16歳の息子を殴って死なせた。都内の私立高校を退学した息子は無職で、生活態度をめぐってもめていた。5人家族だった。(川崎市)

⑤空調会社を経営している男性(53歳)が家族を斬り殺す事件があった。妻は刃物で切られたうえネクタイを首に巻かれた状態で、中学3年の次女も刃物で切られて死亡した。(宮城県)

⑥会社員男性(31歳)が1歳児の息子に暴行を加えて意識不明の重体にする事件があった。(埼玉県)

 親が子を殺し、子が親を殺す。社会の荒波から、本来、防波堤となるべき家族・家庭が牙をむきだし、悲劇の舞台となっています。町の片隅で核家族化し、あるいは形態的には大家族を保っていても、精神的には孤立して、「砂粒」のようになった人々の悲鳴が聞こえてきそうです。父親は食わんがための経済活動に忙しくて、時間的にも精神的にも余裕はなく、母子は二人きりで地域社会からも孤立した空間で、密着した時間を過ごしています。一昔前は、そういう母子関係から生じる病理は「母原病」などと指摘されたものですが、昨今の100年に1度などと言われる経済不況で、父親はますます追い詰められ家庭での「父親不在」状態は固定化し、母子の窮屈な人間関係がますます形成されてゆくように思われます。一方、お年寄りたちは、「生活」に追われる子供世代を見て、迷惑をかけまいとひっそり老夫婦で寄り添い、片方に先立たれた後は、一人でほそぼそと暮らしている情景が目に浮かんできます。

「サザエさん」には、ノリスケおじさんという緩衝材のような人がいました。サザエさん一家に若干、違った視点や雰囲気を持ち込む存在です。渥美清が主演して国民的ヒットとなった「男はつらいよ」では、吉岡秀隆演じる甥の満男には、まさしく「寅さん」がそういう存在でした。両親が離婚した傷心のガールフレンド泉(後藤久美子)に会うために予備校をさぼって九州までバイクで会いに行った満男を、世間の常識で両親は非難しますが、そんな満男を寅さんは庇います。

「お前たち、満男を一人前の男とみてやらないといけないぜ」

一昔前は、家族の中にも、近所にもそういう、違った意見を言ってくれる人がいたものです。燃えたぎり、煮えたぎり、カチカチになった家族の人間関係をふっとほぐしてくれる存在がいたものです。それが、家族の中からも、地域社会の中からも消えてしまったところに、言うなれば自動車のハンドルの「遊び」のようなものが少ない人間関係が出来上がってしまっているのだと思われます。家族に、逃げ場がないのです。ですから、家族の形態が小さいだけ密接、密着していた分、何もことがなく順調な時には、近所もうらやむような親子兄弟が、いったん、夫のリストラなどの経済危機や、子どもの受験の失敗、学校でのいじめ、夫婦間の行き違いといったことが起こり、自分たちでの解決に失敗するともはや、もっていき場を失って、暴走するケースも多々あるように思えます。家族の構成員の内で誰かが立ち止まり、冷静になればすむものを、どんどん、どんどん小集団が各自の感情をむき出しに爆発させながら、加速度的に追い詰められていくのだと思います。

そういったエネルギーが、家族に向かない場合は、自分自身に向かいます。「自殺対策白書」によりますと、2007年の自殺者は過去2番目の多さで、これで10年連続して自殺者は3万人を超えたということです。

追い詰められ我慢の限界を超えた人々の悲鳴が、いたるところに満ち満ちているのが現代日本です。大恐慌に匹敵する不況下で、経済的にも、さらに追い詰められ、家族にも家庭にも安住できないばらばらな砂粒と化した個々人が、見えてきます。昨今の新興宗教の隆盛、占い・スピリッアルブームも、ここに起因するように思われます。

1945年の終戦後、敗戦国日本は、経済復興こそが幸せになる途と信じてずっと努力を重ねてきました。アメリカからもたらされるものを受け入れ、日本的なものを投げすてあるいは変質させて、今の日本を築き上げてきました。その先頭に立って頑張ってこられたのがおそらく「団塊の世代」の方々でしょう。現在の「こころ寂しい」社会の原因にはいろいろなものが複合的に影響を与えているのでしょうが、一貫して経済効率一辺倒でやってきた社会の一つの帰結点がここにあるように、私には思えてなりません。

2008年12月28日 (日)

おひとり様の成年後見

 先ほどテレビを見ていたら久米宏さんの番組で、現代の結婚事情を紹介していました。20代女性は、早期結婚を求め、それに対して、男性は結婚に消極的。結婚相談所は女性で大盛況。「婚活」に日夜、励む女性の姿がそこにありました。それでも、20代女性で生涯結婚できない人の確率を予測すると25パーセントにもなるそうですから、厳しさがうかがえます。私が、社会に出た時は、バブル前の頃で、入った生命保険会社では、まさしく女性には「寿退職」するまでの腰掛的な職場で、長く勤めても給料も地位も頭打ち、会社の予想に反してあまりにも長く勤める女性職員は、自宅から遠く離れた支社勤務を命じたりして、暗に辞職を求めたりというひどい状況も残っていました。その後、「男女雇用機会均等法」ができて、がんばる「総合職」が出てきて、気がついたら結婚時期を逃していたというパターンがあったように思いますが、今のこの「早婚」ブームはどう解釈すればいいのでしょうか?                                                               リーマンブラザーズの破綻以来、時代が大きく変化しそうなので、このような統計が今後の予想に役立つかは少し自信がありませんが、国勢調査をもとに年齢別未婚率を見たデータがあります。それによりますと1920(大正9)年の25歳から29歳男性の未婚率は25.2パーセント、30歳から34歳男性で8.2パーセント、50歳(これを生涯未婚率と言うそうです)男性で2.2パーセントとなっています。女性では、それぞれ、9.2パーセント、4.1パーセント、1.8パーセントとなっています。それが1970(昭和45)年男性では、46.5パーセント、11.7パーセント、1.7パーセントに、1970(昭和45)年女性では18.1パーセント、7.2パーセント、3.3パーセントに上昇し、その後は男女とも増加の一途をたどり、2005(平成17)年男性では、71.4パーセント、47.1パーセント、15.4パーセント、2005(平成17)年女性では59.0パーセント、32.0パーセント、6.8パーセントにまで数値が大きくなっています。この100年ぶりだといわれる経済不況が、結婚率の上昇に働くとは少し考えられないところをみると、やはりこの傾向は今後も続くのではないでしょうか。                 

2008年10月26日 (日)

おひとり様の成年後見

 有吉佐和子氏の1972年の小説に「恍惚の人」というのがありました。空前のベストセラーとなり、1973年には森繁久彌主演で映画化され、その迫真の演技が話題となりました。同じく「介護」をテーマにした「花いちもんめ」という映画が千秋実主演で1985年に作られています。その年の日本アカデミー賞を受賞し、千秋実は主演男優賞に輝いています。「恍惚の人」の森繁久彌演じる茂造も、「花いちもんめ」の千秋実演じる冬吉もともに「認知症」でした。そして、介護の担い手はというと、「恍惚の人」では高峰秀子演じる昭子、「花いちもんめ」では 十朱幸代演じる桂子、ともに「嫁」でした。驚いたことに、舅の介護の問題に直面しても、結局は、家庭の崩壊にまでは至らず、「花いちもんめ」に至っては、かえって家族の絆を深めたりしています。現在との時代状況の違いを感じざるをえません。

 介護保険は、「嫁」の介護負担を少しでも軽減しようとの意図のもとに制度設計された一面もあったようです。ところが、現実は、平均寿命の伸びで、「嫁」や「娘」も年老いて「老老介護」は当たり前、このところ話題になっているのは、×いち、あるいは独身の息子による老親の介護です。介護保険の訪問介護にしても、家庭で主に介護を担う人が、全く家事の心得がない人であることは想定していないようで、りんごの皮さえ満足に剥けない50歳を過ぎた独身男性に、ある日突然、老親の介護が降りかかってきた場合の驚きは、容易に想像できるものです。老親の介護で、フルタイムでは働けなくなり、当然、収入も減って、女性と違って男性は一般に、近所との付き合いも少なく、そのため精神的にも孤独になって、痛ましい「高齢者虐待」へとすすむケースも見受けられるようです。

2008年9月22日 (月)

おひとり様の成年後見

 よく、女性の社会進出が家庭の崩壊を招き、お年寄りの介護を家族で支えきれなくなった元凶であるという議論がなされることがありますが、どうやらそうではなさそうです。

 人の一生の生活に見られる規則的な変化をよく、「ライフサイクル」と呼びますが、総務省「国勢調査」などをもとに作成された大正9年(1920年)と平成4年(1992年)のライフサイクルを比較してみるとそのことがわかります。大正期、妻は21.2歳、夫は25歳で結婚し、その後、15年をかけて子供5人をもうけ、末子が学校を卒業した3ヶ月後には夫は55歳で定年退職。その6年後、夫は61.1歳でこの世を去ります。妻は、夫の定年後、10.5年を長男夫婦などと3世代同居をして暮らしますが、夫死亡ののち4.2年後、61.5歳で夫の後を追います。なお、子どもたちによって扶養される夫引退後の期間は夫60歳、妻56.2歳から5.3年間ということです。

 一方、平成期は、妻、26.0歳、夫、28.4歳で結婚。その後、2.9年の間に多くて2子をもうけ、末子が学校を卒業してもまだ定年(60歳あるいは65歳)まで8年から13年あります。その後、死がおとづれるまで12、3年あります。妻は、夫の死亡後、7.8年をひとりで生き、83歳でこの世を去ります。子供たちに扶養される期間は、夫65歳、妻62.6歳から20.4年にもなるとの統計です。

 確かに、3世代同居という家族介護に適した形態は、平成の時代には見られなくなりましたが、大正期には、そういう形態が整っていたとしても、男性は定年、女性は子育てが終わるとあっという間にお迎えが来ていたのであって、そもそも介護の必要性が今日ほどなかったというのが本当のところでしょう。よく言えば、今は人生に時間的なゆとりが増えたということです。                                              

2008年8月16日 (土)

おひとり様の成年後見

 総務省が実施した「国勢調査」によると、「3丁目の夕日」の頃、つまり昭和35年の65歳以上人口の全体に占める割合は、5.7パーセント、それが、平成17年には21.1パーセントにはね上がっています。そのうち、悪名高き「後期高齢者」と呼ばれる、75歳以上の割合は、昭和35年の1.7パーセントに対して、平成17年には9.1パーセントにもなっています。対照的に、0歳から14歳までの割合は、昭和35年には30.2パーセントいたものが、平成17年には13.7パーセントと半分以下になってしまっています。 国立社会保障・人口問題研究所の平成18年12月の推計によると、平成62年(2050年)には、0歳から14歳人口は8.6パーセントまで落ち込み、65歳以上が39.6パーセント、75歳以上が24.9パーセントにもなってしまうと予測されています。

 次に、同じく総務省統計局「国勢調査」によると、昭和30年の総世帯数は 17,540世帯、平均世帯人員は4.97人であったものが、平成17年には総世帯数 49,063世帯、逆に、平均世帯人員は2.55人にまで減少しています。 また、「高齢者世帯」(平成8年度までは男65歳以上、女60歳以上の者、平成9年度以降は男女を問わず65歳以上の者のみで構成するか、または、これに18歳未満の者が加わった世帯をいう)の推移は、1965(昭和40)年を100(799,000世帯)としてその指数の変化をみると、1985(昭和60)年には、389(3,110,000世帯)、2005(平成17)年には1045(8,349,000世帯)とおよそ40年間で約10.5倍に増加しています。これに対して、総世帯の推移は、1965(昭和40)年を100(25,940,000世帯)とした場合、2005(平成17)年には181(47,043,000世帯)と「高齢者世帯」ほど増加していません。

 これが、数字で見る少子高齢化、そして、お年寄りだけで寄り添い、あるいお年寄り一人だけでポツンと暮らす現代日本の姿です。                                                             

2008年7月 8日 (火)

おひとり様の成年後見

 「ALWAYS 3丁目の夕日」という映画が続編を含めて大ヒットしました。昭和33年頃の東京の下町で繰り広げられる人々の日常生活を、人情たっぷりに描いたほのぼのとするドラマです。私も遅ればせながらDVDで観ましたが、口はあらっぽいが、隣り近所の人々でお互いを助け合う「コミュニティ」というものが確かにあった時代でした。年寄りも子どももおじちゃんもおばちゃんも、泣き笑いしながら天空に聳え立つ東京タワーに希望を込めて未来に想いをはせていた時代でした。
あの頃を知る者にとっては胸がキュンとなるようなノスタルジーが、知らない世代にとっては、現実の競争社会とは違う暖かさが、何とも言えない魅力となってこの映画を大ヒットへと導いたのでしょう。

2008年3月27日 (木)

おわりに

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

成年後見も始まってはや8年の月日が流れました。まだまだ、これからの制度ではありますが、スタート当初に比べると世間の認知度も格段に高まり、仕事もしやすくなりました。

平成12年に初めて後見の相談を受けて第1号の方を受任して以来、次々とご依頼を受け、件数だけはかなりの数になってしまいました。はたして、御縁をいただいた方々にどれだけ満足していただけたかと考えた時には、私の力が及ばなかったことも多々あったと思われ、既に亡き方々を含め申し訳なく思います。それでもご本人からご家族から、はたまた行政や施設の方々から、ご相談、ご依頼を受けるたびに既に受任している件数が多くなっているからと言って、無下にお断りすることなく何らかの対応はさせていただいてきたのは、多くの方々の笑顔に接してこられたからだと思います。

「いつもお世話かけるねえ」

と、感謝の言葉をいただいたり、中には嘘のような話ですが、せがまれて渡した私の写真に向って、朝晩、手を合わせてくださった方もいらっしゃいました。(もちろん、お線香までは立てられませんでしたが)

少しでもお役に立てられたのかと思う時、まさしく後見人冥利につきる思いがいたします。

しかしながら、私自身、辛いこと、悲しいことがあった時、元気のない私に向って励ましの言葉をかけて下さったり、何より頼りにして下さるご様子に接するとき、私が潰れてしまったら、この方々の期待に答えられないと、歯を食いしばって頑張る元気をいただいてきました。

私の半生は、まさしくジェットコースター、少し上がるとその倍も急降下するという人生を繰り返してきました。それはいつも背後から、私が気付かないうちに不意にやってきます。

自分の存在価値さえもわからなくなっている時に、お世話している方々の微笑みが、私の心をどれだけ救ってくれたことでしょう。

私は、これからも、どこかで成年後見に関わりながら生きて行こうと思っています。

そして今、理想とする後見の姿を求めて旅立ちます。

2008年3月24日 (月)

成年後見な人々 7 宗教の人⑥

「ありがたいご供養が未来永劫続くんですぞ!」

私が、言葉を失っていると、

「一体600万円、6体で3600万円!」

と一気に言った。

私は、当惑で頭が白くなるのを覚えながらも、

「それはちょっと・・・」

とかろうじて応えた。

住職は畳み掛けるように

「それがお嫌なら、預かってるご先祖の分、引き取ってもらわなあきませんな」

と私を見据えた。

私は少しの間、沈黙した後で、心の中に山藤さんの顔を思い浮かべて

「お引き取りください」

とキッパリ言った。

住職は、少し驚いた表情を見せた後で、急に笑顔になって、

「じゃあ、一体についてこれで」

とポケットから電卓を取り出して数字を見せた。私は、怒鳴りだしそうになる気持ちを押さえて、

「もう、お帰りください」

と絞り出すように言った。

住職はさっと顔を紅潮させると、

「じゃあ、さっさと引き取りに来てくださいよ!」

と捨て台詞を残すと椅子を蹴って立ち上がり、事務所を出て行った。

その寺院の有名な花の季節ではないものの、広大な伽藍は豊かな緑で彩られていた。

住職の僧房を訪ねると、彼の妻が対応に出て来た。

「では、こちらを」

と渡されたのは、百貨店のショッピングバッグに無造作に放り込まれた5体の位牌だった。

「おたくら、宗教家やないねえ。」

私が、そう、投げかけるや妻の顔がたちまち醜く歪むのを尻目に、私は背を向けるとさっさと歩き始めた。

山藤さんの納骨もご先祖のご位牌も、49日までお世話をしてくれた、有料老人ホームの近くの寺院が、常識的なお布施で引き受けてくれていた。

見渡せば、仏塔をはじめとする華麗な伽藍が望まれた。五月晴れの陽光を受け、きらきらとまぶしく輝いていた。

2008年3月15日 (土)

成年後見な人々 7 宗教の人⑤

山藤さんの遺骨は、49日を過ぎてから、住職の寺院に納めることにしていた。それまでは、有料老人ホームの好意で、空き部屋に祭壇をしつらえ、同じ宗派の近所の僧侶がお世話をしてくれていた。また、山藤さんの部屋の仏壇には先祖の5体の位牌が残されており、こちらの方は、葬儀の日にいち早く、住職がもって帰っていた。

いよいよ納骨の日となる3日前になって、突然、住職が、何のアポもなく私の事務所を訪ねてきた。

きらびやかな法衣ではなく、ネクタイにスーツ姿だった。

住職は、入口に立つと、お世辞にも広くない私の事務所をぶしつけに眺め回した後で、

「今日はご相談に参りました。」

と頭を下げた。

「この度はお世話になりました。」

と私が返すと、

「あなたも忙しいだろうから、単刀直入に申し上げましょう」

と身を乗り出した。

「おあずかりしたご先祖の位牌が5つありまして、山藤さんのと合わせて6体。それはそれはありがたい厨子を作って永代にご供養しますんでな。ついては、一体につきこれほど用意してもらおうと思いましてな。」

と、左手を開きそれに右手の人差し指を添えた。

「ええっと、一体、6万ですか?」

と私が困惑しながら応えると、

「何をご冗談を!」

と肩を怒らせた。

2008年2月29日 (金)

成年後見な人々7 宗教の人④

 山藤さんの、有料老人ホームでの穏やかな生活は、3年続いた。春、あたりが急に花めいてくる季節になって、桜の花びらが散るように逝かれた。それは、女性ひとりで、誰に頼ることなく毅然と生きてこられた山藤さんにふさわしい最後だった。

 葬儀は、かねてからの遺志により私が喪主となって、花に囲まれたりっぱな祭壇が組まれた。僧侶は、例の住職がよばれた。山藤さんの遺志として、「一応」その住職が指定されていたからだった。しかし、最終的には納骨をする寺院を含めて、すべて私の判断に委ねるものとされていた。

 山藤さんが亡くなったので、葬儀・納骨をお願いしたい旨、住職に電話でお願いすると、住職は、二つ返事で飛んできてくれた。

淡いピンクを基調にしたあでやかな祭壇を目にして、住職は感嘆の声を上げた。

「これは、お高くついとりますなあ・・・」

きらびやかな金色の衣を身にまとった住職が、祭壇の前にどっかと座った。あたりが静寂に包まれ、参列者が読経の始まりを、心静かに待っていた。

住職の怒号が響いた。

「なんじゃ!これは!」

と、住職の近くに侍していた葬儀社の担当者に言った。

「こんなんじゃ、できんじゃろ、すぐ、変えろ!」

何かはよくわからないが、仏具に不手際があったようである。

担当者の女性は、すぐに走ってどこかに去っていった。

「まったく、人を誰と思っとるんじゃ」

住職の声が、マイクを通じて会場に流れた。参列者がざわめいた。

およそ5分して、担当の女性がもどってきて、真鍮の仏具を差し出した。

やがて、住職が読経を始めた。

およそ、30分、読経が終わると住職は、さっさと葬儀会場を出て行った。

僧侶の控え室に住職を訪ね、葬儀社から教えられたとおりの金額のお布施を手渡してから、試しに住職に聞いてみた。

「数日前まであんなに元気だったのに、山藤さんはどこに行ってしまったんでしょうねえ?」

住職は、私の顔を怪訝そうに眺めた後で、

「まあ、いろいろな教えがありますな」

とだけ答えた。

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