榊原秀剛 司法書士事務所

2008年8月16日 (土)

おひとり様の成年後見

 総務省が実施した「国勢調査」によると、「3丁目の夕日」の頃、つまり昭和35年の65歳以上人口の全体に占める割合は、5.7パーセント、それが、平成17年には21.1パーセントにはね上がっています。そのうち、悪名高き「後期高齢者」と呼ばれる、75歳以上の割合は、昭和35年の1.7パーセントに対して、平成17年には9.1パーセントにもなっています。対照的に、0歳から14歳までの割合は、昭和35年には30.2パーセントいたものが、平成17年には13.7パーセントと半分以下になってしまっています。 国立社会保障・人口問題研究所の平成18年12月の推計によると、平成62年(2050年)には、0歳から14歳人口は8.6パーセントまで落ち込み、65歳以上が39.6パーセント、75歳以上が24.9パーセントにもなってしまうと予測されています。

 次に、同じく総務省統計局「国勢調査」によると、昭和30年の総世帯数は 17,540世帯、平均世帯人員は4.97人であったものが、平成17年には総世帯数 49,063世帯、逆に、平均世帯人員は2.55人にまで減少しています。 また、「高齢者世帯」(平成8年度までは男65歳以上、女60歳以上の者、平成9年度以降は男女を問わず65歳以上の者のみで構成するか、または、これに18歳未満の者が加わった世帯をいう)の推移は、1965(昭和40)年を100(799,000世帯)としてその指数の変化をみると、1985(昭和60)年には、389(3,110,000世帯)、2005(平成17)年には1045(8,349,000世帯)とおよそ40年間で約10.5倍に増加しています。これに対して、総世帯の推移は、1965(昭和40)年を100(25,940,000世帯)とした場合、2005(平成17)年には181(47,043,000世帯)と「高齢者世帯」ほど増加していません。

 これが、数字で見る少子高齢化、そして、お年寄りだけで寄り添い、あるいお年寄り一人だけでポツンと暮らす現代日本の姿です。                                                             

2008年7月 8日 (火)

おひとり様の成年後見

 「ALWAYS 3丁目の夕日」という映画が続編を含めて大ヒットしました。昭和33年頃の東京の下町で繰り広げられる人々の日常生活を、人情たっぷりに描いたほのぼのとするドラマです。私も遅ればせながらDVDで観ましたが、口はあらっぽいが、隣り近所の人々でお互いを助け合う「コミュニティ」というものが確かにあった時代でした。年寄りも子どももおじちゃんもおばちゃんも、泣き笑いしながら天空に聳え立つ東京タワーに希望を込めて未来に想いをはせていた時代でした。
あの頃を知る者にとっては胸がキュンとなるようなノスタルジーが、知らない世代にとっては、現実の競争社会とは違う暖かさが、何とも言えない魅力となってこの映画を大ヒットへと導いたのでしょう。

2008年3月27日 (木)

おわりに

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。

成年後見も始まってはや8年の月日が流れました。まだまだ、これからの制度ではありますが、スタート当初に比べると世間の認知度も格段に高まり、仕事もしやすくなりました。

平成12年に初めて後見の相談を受けて第1号の方を受任して以来、次々とご依頼を受け、件数だけはかなりの数になってしまいました。はたして、御縁をいただいた方々にどれだけ満足していただけたかと考えた時には、私の力が及ばなかったことも多々あったと思われ、既に亡き方々を含め申し訳なく思います。それでもご本人からご家族から、はたまた行政や施設の方々から、ご相談、ご依頼を受けるたびに既に受任している件数が多くなっているからと言って、無下にお断りすることなく何らかの対応はさせていただいてきたのは、多くの方々の笑顔に接してこられたからだと思います。

「いつもお世話かけるねえ」

と、感謝の言葉をいただいたり、中には嘘のような話ですが、せがまれて渡した私の写真に向って、朝晩、手を合わせてくださった方もいらっしゃいました。(もちろん、お線香までは立てられませんでしたが)

少しでもお役に立てられたのかと思う時、まさしく後見人冥利につきる思いがいたします。

しかしながら、私自身、辛いこと、悲しいことがあった時、元気のない私に向って励ましの言葉をかけて下さったり、何より頼りにして下さるご様子に接するとき、私が潰れてしまったら、この方々の期待に答えられないと、歯を食いしばって頑張る元気をいただいてきました。

私の半生は、まさしくジェットコースター、少し上がるとその倍も急降下するという人生を繰り返してきました。それはいつも背後から、私が気付かないうちに不意にやってきます。

自分の存在価値さえもわからなくなっている時に、お世話している方々の微笑みが、私の心をどれだけ救ってくれたことでしょう。

私は、これからも、どこかで成年後見に関わりながら生きて行こうと思っています。

そして今、理想とする後見の姿を求めて旅立ちます。

2008年3月24日 (月)

成年後見な人々 7 宗教の人⑥

「ありがたいご供養が未来永劫続くんですぞ!」

私が、言葉を失っていると、

「一体600万円、6体で3600万円!」

と一気に言った。

私は、当惑で頭が白くなるのを覚えながらも、

「それはちょっと・・・」

とかろうじて応えた。

住職は畳み掛けるように

「それがお嫌なら、預かってるご先祖の分、引き取ってもらわなあきませんな」

と私を見据えた。

私は少しの間、沈黙した後で、心の中に山藤さんの顔を思い浮かべて

「お引き取りください」

とキッパリ言った。

住職は、少し驚いた表情を見せた後で、急に笑顔になって、

「じゃあ、一体についてこれで」

とポケットから電卓を取り出して数字を見せた。私は、怒鳴りだしそうになる気持ちを押さえて、

「もう、お帰りください」

と絞り出すように言った。

住職はさっと顔を紅潮させると、

「じゃあ、さっさと引き取りに来てくださいよ!」

と捨て台詞を残すと椅子を蹴って立ち上がり、事務所を出て行った。

その寺院の有名な花の季節ではないものの、広大な伽藍は豊かな緑で彩られていた。

住職の僧房を訪ねると、彼の妻が対応に出て来た。

「では、こちらを」

と渡されたのは、百貨店のショッピングバッグに無造作に放り込まれた5体の位牌だった。

「おたくら、宗教家やないねえ。」

私が、そう、投げかけるや妻の顔がたちまち醜く歪むのを尻目に、私は背を向けるとさっさと歩き始めた。

山藤さんの納骨もご先祖のご位牌も、49日までお世話をしてくれた、有料老人ホームの近くの寺院が、常識的なお布施で引き受けてくれていた。

見渡せば、仏塔をはじめとする華麗な伽藍が望まれた。五月晴れの陽光を受け、きらきらとまぶしく輝いていた。

2008年3月15日 (土)

成年後見な人々 7 宗教の人⑤

山藤さんの遺骨は、49日を過ぎてから、住職の寺院に納めることにしていた。それまでは、有料老人ホームの好意で、空き部屋に祭壇をしつらえ、同じ宗派の近所の僧侶がお世話をしてくれていた。また、山藤さんの部屋の仏壇には先祖の5体の位牌が残されており、こちらの方は、葬儀の日にいち早く、住職がもって帰っていた。

いよいよ納骨の日となる3日前になって、突然、住職が、何のアポもなく私の事務所を訪ねてきた。

きらびやかな法衣ではなく、ネクタイにスーツ姿だった。

住職は、入口に立つと、お世辞にも広くない私の事務所をぶしつけに眺め回した後で、

「今日はご相談に参りました。」

と頭を下げた。

「この度はお世話になりました。」

と私が返すと、

「あなたも忙しいだろうから、単刀直入に申し上げましょう」

と身を乗り出した。

「おあずかりしたご先祖の位牌が5つありまして、山藤さんのと合わせて6体。それはそれはありがたい厨子を作って永代にご供養しますんでな。ついては、一体につきこれほど用意してもらおうと思いましてな。」

と、左手を開きそれに右手の人差し指を添えた。

「ええっと、一体、6万ですか?」

と私が困惑しながら応えると、

「何をご冗談を!」

と肩を怒らせた。

2008年2月29日 (金)

成年後見な人々7 宗教の人④

 山藤さんの、有料老人ホームでの穏やかな生活は、3年続いた。春、あたりが急に花めいてくる季節になって、桜の花びらが散るように逝かれた。それは、女性ひとりで、誰に頼ることなく毅然と生きてこられた山藤さんにふさわしい最後だった。

 葬儀は、かねてからの遺志により私が喪主となって、花に囲まれたりっぱな祭壇が組まれた。僧侶は、例の住職がよばれた。山藤さんの遺志として、「一応」その住職が指定されていたからだった。しかし、最終的には納骨をする寺院を含めて、すべて私の判断に委ねるものとされていた。

 山藤さんが亡くなったので、葬儀・納骨をお願いしたい旨、住職に電話でお願いすると、住職は、二つ返事で飛んできてくれた。

淡いピンクを基調にしたあでやかな祭壇を目にして、住職は感嘆の声を上げた。

「これは、お高くついとりますなあ・・・」

きらびやかな金色の衣を身にまとった住職が、祭壇の前にどっかと座った。あたりが静寂に包まれ、参列者が読経の始まりを、心静かに待っていた。

住職の怒号が響いた。

「なんじゃ!これは!」

と、住職の近くに侍していた葬儀社の担当者に言った。

「こんなんじゃ、できんじゃろ、すぐ、変えろ!」

何かはよくわからないが、仏具に不手際があったようである。

担当者の女性は、すぐに走ってどこかに去っていった。

「まったく、人を誰と思っとるんじゃ」

住職の声が、マイクを通じて会場に流れた。参列者がざわめいた。

およそ5分して、担当の女性がもどってきて、真鍮の仏具を差し出した。

やがて、住職が読経を始めた。

およそ、30分、読経が終わると住職は、さっさと葬儀会場を出て行った。

僧侶の控え室に住職を訪ね、葬儀社から教えられたとおりの金額のお布施を手渡してから、試しに住職に聞いてみた。

「数日前まであんなに元気だったのに、山藤さんはどこに行ってしまったんでしょうねえ?」

住職は、私の顔を怪訝そうに眺めた後で、

「まあ、いろいろな教えがありますな」

とだけ答えた。

2008年2月13日 (水)

成年後見な人々7 宗教の人③

住職だった。

「ご立派なところですなあ」

と入ってくるなり言った。

招じ入れるより早く、こじんまりとしたキッチンに置かれた椅子にさっさっと腰掛けて住職が続けた。

「ご仏壇は着いておりますかな」

「いえ、まだなんですけど」

と私が応えると、

「すぐに出たんじゃないないんかのう」

と不機嫌そうに住職が言った。

「これは住職、わざわざお越しいただいて」

と山藤さんが奥から出てきて言った。

そこで初めて、住職は

「いやあ、おばあちゃんもお元気そうで何より、何より。いい所にはいりましたなあ」

と山藤さんに会釈した。

 山藤さんの出したお茶を飲みながら、しばらく手持ち無沙汰そうにしていた住職だったが、これから始まるホームでの生活について山藤さんと話していた私に向ってがぜん話し始めた。

「これはもう、お見せしましたかな?」

と、紺色のデニム地の長方形のバッグを示した。

「いえ・・・!?」

と私。

山藤さんはうつむいた。

「これは、M放送が取材に来たときにおいていきよったものでな」

住職の、大きな鼻がむずむず動いた。

「先生は、うちのお寺をご存知ないようなんで、ご説明しますがな、梅雨どきにもなると観光バスで大勢、来られるくらい有名なんじゃがな、ご存じないかな?」

「すみませんねえ、ものを知らないもので」

住職は、胸をそらすと、

「○○××の花が、境内いっぱいに咲いて、Mだけじゃない、NもYもKもみんな決まって取材にきよりますんじゃ。新聞にも出るけど、ご存じないとは!歴史が古い上に観光名所、国宝の本堂、重要文化財の仏様、いろいろありがたいことばかりでな、先生も一度来られるといいですぞ」

「そうですか、ええ、一度は・・・」

「まあ、ご立派なものがたくさんあると、その維持費も大変でしてな、国からも補助が出よりますが、これが中途半端な額ではなくてな・・・」

「それは、大変ですね」

「結構、やりくりが大変ですは・・・」

そう言うと住職は、嬉しそうに笑った。

「その功績が認められたのか、今度、位が一つあがりましてな、ここまでの位になると、日本国中でもあんまりいない」

住職はそう言うと、さらにそりかえった。

 山藤さんは、居眠りをしている。

「袈裟の色が変わりましてな、」

その時、ようやく運送屋が仏壇を届けに来てくれた。私は、いそいそ立ち上がって、ドアに向った。

2008年2月 2日 (土)

成年後見な人々7 宗教の人②

山藤さんの入居した有料老人ホームは、超高級というわけではないが、それでも入るときに2,000万円くらいは必要になる。川沿いにある赤い煉瓦造りの瀟洒な5階建てのホームは、入り口に置かれたローマ風の彫刻と高い天井から吊るされたシャンデリアが、ホテルのロビーを思わせる豪華さを誇っていた。

私は、約束の2時より少し早めに山藤さんの部屋に着いた。職員の働きで、部屋はすっかりきれいに片付けられている。

しかし、仏壇はまだ、着いていない。

「あのご住職とはもう、お付き合いは長いんですか?」

私は、気になっていたことを尋ねた。

「たまたま、母親の葬式で世話になって、お骨も入れてもろたけど、それだけやで。今日も別の人でもよかったんやけどな、他に思いつかへんしな」

と山藤さんが言った。

「そうなんですか、また、私は、ご先祖代々、お世話になってこられたのかと思いまして」

「まあ、私が逝ったときは、一応、声かけてくれてもええけど、どうするかは先生に任せますわ」

その時、部屋の入り口のチャイムが鳴った。

2008年1月25日 (金)

成年後見な人々7 宗教の人①

「で、先生はどちらの大学を出ておられるのかな?」

剃りあげた頭のいただき部分がくびれて深い皺のようになっている。つるりとした広い額が、脂でてらてら光っている。

「私は、東京の私学ですが」

マンションで一人暮らしをされていた山藤つき枝さん(仮名)が、やっとのことでお気に入りの有料老人ホームを見つけられ、引越しの家財道具を運びだした後で残った仏壇の「お性根」を抜いてもらうため、山藤さんのお母さんがまつられている寺の住職に来てもらっていたのだ。主人がすでに引っ越してしまったマンションの応接室で、出されたお茶を一口、含んでから、住職は続けた。

「そうすると、早稲田ですか慶応ですか?」

「いえ、早稲田でも慶応でもないです。」

「ほう!」

住職は、私の顔をジロリと見たあとで

「私はねえ、東京大学の吉仲教授を知ってましてね。」

「そうですか」

「法律の権威ですよ。ご存じですかな?」

「いえ、知りませんが。」

「ほう!ご存じない!私がこの前お会いしたときは・・・」

私はいい加減いやになってきて、

「そろそろお願いできますか」

と遮った。

「では始めますかな」

と何か言いたそうな顔のままで立ち上がった。

金箔をほどこしたりっぱな仏壇の前に座ると住職は何やらお経を唱え始めた。私も住職の後ろで神妙に正座をして座った。足の痺れに悩まされる前に、お経は終ってしまった。

お性根抜きの仏事は、仏壇を引越し先の有料老人ホームの部屋に運びこんだ後で、今度は一度ぬいた魂を再び招き入れることで終了する。

「では、2時でしたな、住所はここでいいですな」

と住職は、隣りの区にある有料老人ホームの住所を記したメモ書きを示した。

「運送屋さんの作業にもよりますが、まあ、2時には着いてると思いますので、ええ、こちらでよろしくお願いします」

と私は答えた。

2008年1月14日 (月)

成年後見な人々6 母の愛する人⑧

五月の連休を私は、鎌倉、横浜方面に遊んでいた。20歳代を東京周辺で過ごした私には想い出のつまった土地だった。あちこちであの頃の記憶の断片に触れた後、私は帰路につき自分の車で静岡付近を走っていた。東名道は昔もよく通った道だ。

ふいに携帯電話が鳴った。昭治さんだった。

「今朝、妻が死によりまして・・・」

「えっ!」

「明け方、しんどい、言いよりますから、お医者に来てもろたら・・・」

「それで、奥様のご遺体は・・・?」

「まだ、そのままにしております」

「わかりました。今、旅先ですがすぐにもどりますから」

私は、高速をひたすら飛ばした。施設を一緒に訪れた時の達江さんの哀しげな面影が脳裏をよぎった。

初夏の西陽がまぶしい頃になって私はようやくご自宅に着いた。

昭治さんと将太さんが、達江さんを寝かせた布団の傍らで、ちょこんと座っていた。

「お世話かけますな」

昭治さんが私を見て呟くように言った。

将太さんが、私を見上げて

「お母さん、きっと、あのきれいな赤いお星様になったんですよ。」

と悲しそうに言った。

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